昭和44年03月19日 朝の御理解
御神訓 一 信心の心得
「不浄のある時は先に断りおいて、願いあることを頼めよ。」
不浄のままでは、願っても願いが本当の成就にならない事が分かりますね。ですからいかに清まると言う事が大事であると言う事と同時に、厳密に言うて不浄のない時はないと思う位に、私共は言うなら汚い訳ですから。やはりここん所を頂きますとお詫びに徹すると言う事は、確かにこの御神訓を頂いても分かります。人間は神様の前に平身低頭お詫びをする他はない。お詫びに徹する以外はないと言う事になりますね。それから願う断りをおいて断りを聞いて下さる神様が。その先に願う事を願うのである。
只願うただけではいけない事が分ります。二代金光様四神様ですね。四神様は「不浄とは不成のことぞ」とも言うておられます。不成と言う事は物事が成就しないと言う事です。お道で言う不浄とは物事が成就しない事を、不浄と言うのじゃと。願っても願ってもおかげにならんと言う事が、神様がお嫌いになると。しかしそれと是とはだからあのう金光教で言う不成というのは、普通で言う不浄とは違うと言う様に感じるですけれども。今日の所を頂きますとね同じなんですよ、だからやっぱり不浄の心であっては。
で願っても成就しないのですから同んなじでしょうが。四神様はその願っておかげにならない事が不浄じゃとこう仰る、不成をお嫌いなさる。だからその不浄をお嫌いなさるのですから、その不浄におかげにならない元を断つ事は、やはりこの不浄を詫びなければならんことになりましょう。だからははぁこりゃ同んなじだなと思いました。そこで段々信心がまぁ上達して参りますと何と言うですかね。今まで不浄と思うておった事は不浄ではない。そして今まで気がつかなかったところに。
この様な不浄があったと気が付くようになります。ですから問題は自分が不浄と感ずることは不浄なのですね。言うなら自分がね手を洗わなければならない、口を濯がなければおられない。それはもうやはり不浄なんです。本当言うたらですよねその不浄じゃない事を不浄と思うておるという、例えてまぁ一例を言うならなら農家の方達がね、田で畑をかけておろうが、肥えをかけておろうがと言う様な御教えがありますが。時なんかはいわゆる汚い仕事をしておられる訳なんですよね。
人間のいわばまぁ排出物であるところの、糞尿と言う様なものをその田畑に蒔いたりしておる時には、やはりそれを清浄なものとか美しいものとは思われませんけれども。それかと言ってならそんな時に願わんで良いかち言うと、やっぱ願わにゃおられません。ですから本当はそれは不浄ではない。けれども私共はやっぱ汚いと思うから不浄なのである。清き所も汚き所も天地の神はお守りあるぞ、という御教えがありますね。いわゆる神様のご守護の中なのだ。神様のお守りの中なんだ。
「吉野山踏み迷うても花の中」という句がありますね。吉野山というところはもうとにかく、三千本から桜がその吉野桜がまぁある所だそうです。例えば踏み間違うたとお粗末が出けたご無礼が出けたと、言うてもやはりそこもやはり花の中だと。神様のお懐の中だ神様のお守り下さる事の中にあるのだと。神様のお守り下さっておるところにです、清いところも汚き所もない筈なんだ。神様のお守りを受けておるのであるから、どんな汚いところでも、もうそれはもう払われておる筈なんだ。
そこでどんなに汚いものでも汚い事でも、例えば御の字がつく。「御年玉」という時に、御という字をつけるでしょう。御の字をつけるとという頂き方であれば、それはもう御の字である。いわゆる有り難いものなのである尊いものである。おかげの現われである。まぁそういうところをまぁ悟りと言う訳でございましょうね。けれどもやはり私どもはやっぱり汚い物は汚いのであり、だか、それを清浄にするために、水をかかったり水で洗うたりですね。
例えばお手洗いに行かせて頂いたら、やはり手を洗わなければおられない。そこに私共のねまぁ理屈抜きにしてです、先に断りをおいてというところが必要になって来るようですね。と言うてならどんなに清めたからと言うて、洗ったからと言うてもうこれで良いという事はないのですから。やはりそこにはお詫びをするより他にはない。これは例えばなら形の事ではない。自分の心にかかる不浄というものはもう限りがない。
久留米の初代がおられます時に今のあの御普請が、久留米の御造営がありました時に、大分の教会は久留米の第一の出社です。それであちらの先生がその当時で、まぁ相当の金額の御造営の費を持ってお供えに見えられた。そしたら石橋先生がそれをお三宝に乗せてお供えなさったところが、どうも不浄がかかってる。石橋先生の御心眼にそのお三宝にお供えしてあるお金に、浄財である筈の浄財にですね、黒い猫が横からコーッとこう手を出したところを頂かれたんです。それで八坂先生と申し上げますから大分は。
八坂さんこれは折角あんたがお供えして来ておるけれども、これは不浄が掛っとるばいて。一遍持って帰って家の者にようと相談してね、家の者もよく納得済みでこれはお供えせにゃいかん、一遍持って帰りなさいち言うて持って帰られた。八坂先生が持って帰られてから、もう今日はもう本当にわきの下から汗が出る思いをしたぞと。折角お供えさせて頂いたら、これは不浄が掛っとるから一遍持って帰って家中の者に相談して、そしてまたおかげ頂くならおかげを頂けと仰ったが。
お前達の中にこれに不浄をかけたもんがおらんかと言うてその話した所が、奥さんが泣き出された。先生実は私がですではなくても親教会に親教会にと言うて、あなたが尽くされるのに、今度は又こういう風にそのなさる。そげんまでしなさらんでん良かろうもんにと、あなたがそれを持ってお出でる時に、実は私が思いましたち言うて。そのうそれが黒い猫がそれに不浄に爪を立てたのが、それの事に違いございませんから、その事をお詫びして下さって、もう一遍お供えに持って行って下さいと言うて。
奥さんが詫びられたということ。でその事をお取次を頂かれてお詫びされたら、いわばそのお供えが適うたというお話が残っております。ですから確かにそう言う様なものも、こりゃ人間の世界でやっぱり不浄ですよね。あのう皆さんがお賽銭を入れられます、そのお賽銭でもまぁ必ずならお賽銭をここでもそうですよ。皆さんお賽銭をみぃんな新しいのと替えてください下さい、ちゅう方達があります。だから新しいのと替えてあげる。出けるだけ綺麗なのをと言う訳なんです。そ
れをねまたお手洗いのところで、いっぺん清めてからお供えをなさる方があります。やはりお供えですから。やはり心がけですよね。お初穂でもそうでしょうが。ここではもうほんなこう握り締めたごたる皴ん寄ったつやら、もうこの頃はもう殆ど綺麗になりましたね、皆さんがそこんところの、まぁ言うならば心がけが段々出けられるようになって。それはここで事務所で落款してますから綺麗なのと。でそれと取り替えてきれいになる。それこそ手が切れるような。
だから形の上においてそういう手が切れる様なお札であるから、不浄が掛っとらんということじゃない事がわかる。形だけじゃない心に不浄があったと。そりゃここでもそんな例はございますね。もう昔は今の文男先生達が椛目で修行生しよります時分にはもう、お月次祭ともなると、もう暇がいる事暇がいる事。神饌の方が暇がいるとです。もういちいちお野菜でもずうっと御祈念してから、不浄のかかっとらんとだけをこうお供えするという訳なんです。
それでもうそれを神饌室がないもんですから、皆が一緒に神饌をしておる所を、みんな参拝して来た者が見よる訳です。そして自分の持って来たお供えがお三宝に乗るじゃろうか、乗らんじゃろうかと思うて冷や冷やしとる訳です。そしてまぁあの時分のその短刀直入に言うてましたからね。〇〇さん是あんたんげとは不浄んかかっとるばい、どげんしたっちゃお三宝に乗らんと言うてですね、よしお三宝に乗ってから先生の手から手にお三宝が行きよってもですね、途中でピシャッともう向こうに渡さんお三宝ば。
神様からちょっとお気付け頂いたがと言う様な事があった。ですからもう本当にお供えをした者は、もうそのう自分のお供えをした物が御神前に、八足の上にお盛り付けが出けるまでは安心がいかんと言う様な時代があったですね、椛目でも。山本から今参ってきますおられませんですけれども、参って来る方がありましたが。ちょうどわらびの時期で、わらびを沢山とって来たから、今日のお月次祭にそのわらびをお供えしようということになった。所がそのわらびだけじゃあんまりしょうぶんじゃけん。
そこに何からパンなっとん買うちから、パンのお供えをそれに添えてからお供えしなさいと言うて、そのう言われた。それでそれをそのご主人がわらびとパンのお供えを持って見えたと。それを私がお取次ぎさせてもらった。そしたらどうしてもそのうわらびの方はお供え、パンの方はお供えにならんのです。「だからこれはどうもパンの方はね、これはもう持って帰んなさい。だからこれはもうわらびの方だけは、これは本当に真心真心のわらびの方だけをお供えさせて頂こう」とその申しましたら。
「先生すいません出掛けにわらびだけじゃあんまりしょうぶんじゃから、パンなっとん買うちからそれに添えてお供えしようてそのう申しますから。わらびだけでよかくさて私は思うたけれども、思うか言うたり聞かせたけれども、いやそれじゃあんまりしょうぶんだから、パンを買うて行きなさいと言うからパンを買うて来た」と言う。もうわらびだけでよかくさというお供えだから、わらびだけでよかという訳なんです。そういうことはもう限りがないほど、昔の椛目時代はございましたですね。
ですからその様な事もです、私共が信心させて頂く者は、本当に心がけなければいけません。今はどんなに不浄がかかっておってもどんなであっても、その御結界という言うならば濾過器にかけて参りますからね。氏子にどのようなお粗末やご無礼があるやら分からん。けれどもあのう今度の御本部の御造営の時だけは、非常に厳格に厳密だったそうですね。御造営費のお供えは、もう随分の人がやはり三代金光様がお受けにならなかったのが、やっぱあったそうです。
ですから例えばその様な時にです、本当に先に断りをおいて願いある事を頼んだらよか。金光様是には私もそうでした。あん合楽でその椛目の時代に御造営が始まると言う事を聞いたから、恐らく私の方が一番じゃろうと思われる位に、まだそういう噂のある時に割り当てになるかも知れん、と言った様な話があった時代です教会に。けれどもそういうことがある筈もありませんし、まぁありもしませんでしたがですね。あの早くお供えさせてもらった。ですから私はそん時にはやはり不浄が掛かってる。
また自分もかけとると思うたからお受け取りを頂かんなら、それをこんな恥ずかしい事はないですからね。先にお断りを置いてここにお供えをさせて頂いて、金光様今日のこの御造営費には、もうどこにどげなお粗末ご無礼があるやら分かりませんから、金光様どうぞお詫びをして頂いて、お納めを頂きますようにと言うて私お供えしました。ようにね先に断りを置いて願いある事を頼めとこう仰る。だから信心させて頂く者は、そう言う様な意味合いにおいての不浄。
その不浄の事を四神様はお道で言う不浄とは不成の事じゃと。不成とは成就しない事ぞと。私共がお願いをさせて貰う、その願いが成就しない。願いよる事が成就しない。ならばそれこそが不成じゃと仰る。そこで私は今日はその不成とここにある不浄というのがです、違う様にはぁ金光様の御信心の不浄というのはそれが不成であって。例えば普通で言う赤不浄とか黒不浄とかと言う様な事も申しましょう。汚いなら手を洗うたらもうそれでもう清められる。
そういう意味合いの不浄とは違うもののように思うておったけれども、今日の御理解を頂くとそうではない。不浄のある時にはね先に断りをおいて、願いある事を頼めよとこう仰るのですから。やはり不浄のままお断りをしないで、お詫びもしないでの信心ではです、これはいわゆる本当に不成に終わるということが分かります。成就しないということが分かります。してみるとこの不浄とその不成。四神様の仰る不成と教祖様がここに仰っておられる不浄とは、同じということが分かるですね。
そこで願うても願うてもおかげにならないならばです、これはひとつ本気でその事に対する不浄に気付かせてもらい。その不浄を払うて頂き、又はお詫びをし徹してお断りを申し上げるという、私は信心がこれはどうでも必要になる。だからこの御神訓を頂きますと、この御神訓はもうお詫びに徹すると、お断りに徹するということを感じます。どこに気が自分がつかんでも、お粗末がご無礼があるやら分かりません。という私は風にこの御神訓を頂かなければならんとこう思いますね。
形の上の事はもう限りなくさせて頂きますよね。手が汚れて便所に行ったままお神様を拝むという人もありませんしね。それこそお賽銭でも一遍清めてから、んならそれだけで不浄が払われたとは思われない。手の切れるような札だから汚れてないから、もうそれで清らかなもの。形は清らかであってもそうである。そこで思うとはですね、それが心の上にていうかその内容に不浄なものがある事も、形の上に不浄がある事もです、やはりこれはいけません。
そこでんなら手を尽くされるだけの事は、ならお札で言うならばね、綺麗なお札に取り替えて頂くと言う位な心がけと同時に、その内容にあるところの不浄というものを、いわゆる先に断りをおいてとこう仰せられますから。その断りをおくということ詫びるということ。同時にかけられておるところの不浄というものを払うて頂くおかげを頂かなければなりません。私はこの御神訓を頂いて、今日は御祈念中に頂いた事はですね。
しゅろの木の一番下からずうっとあのう、しゅろの皮が掛ったのがよくあの喫茶店の何か前に、こう植えてあるでしょう。こう下の皮を剥いたのじゃなくてから、下からずっとそのしゅろの皮がついたままのしゅろがありますね。あの庭木用のあれを頂くんです、どういうことか分からん。そしてこれを頂きましたらこの不浄のここんところを頂いた。あれはどういうことかと言うと、あれはあのう虫がつかないそうですね。こうヒゲがこうやって生えとるでしょう。だからもうほんの一番根からずうっとこうしとる訳。
ところがですねそのそれで、そうしとけば確かにこう虫がつかん。言うなら不浄が着かん訳ですね。けれどもそれでは育ちが悪い。ですからあの皮はやはり剥いで行く事によって伸びる訳です。ですからこの辺が実にデリケートな所であってですね、もう不浄の掛らんごと不浄の掛らんごと、ちゅうてから縮んでしもうとったらどうでしょうか。もうお供えどんするとお供えに不浄がついとる。神様からご無礼になるけんでち言うちから、お供えも何もせんが一番よかち、言うとったらどげんなりましょうか。
こげな立派なモンば頂いたけん神様にお供えしようと。ばってん家内がちった怖気ついた。もうこげん不浄がついたらもう神様に対して相済まんけん、もうお供えするまいち言うてそれは丁度、しゅろの木の皮ば剥かんごたるもんです。是では伸びようがない。ははぁこれはこう言う事だなと。そこで言うならばです、少しは不浄の付く位な信心が必要と言う事になって来るです。例えば信心は御用なりと言った様な、意味合いから言うならですよ。本当に積極的な御用をさせて貰やぁ、ちった人に怪我をさせる事もある。
少しは出血するような場合もある。けれどもねやはり止むに止まれぬという思いがです、皮を剥いでいく身の皮を剥いで行く様に。ですから不浄が掛る位なです、本当を言うたら不浄が掛る位な、私は信心が出けなきゃならない事だとこう思うた。そこでんならいわゆる先に断りをおいてと仰るのですから。この様に積極的に一生懸命御用を頂いておりますが、どこに人に怪我をさせたりお粗末になったり、それが却ってご無礼になりよる様な事かも知れませんけれども。
やはりこうしなければおられませんと、そこんところを詫びるお断りをするという生き方にならせて頂く事によってです、私共は本当の信心がいわゆる成長して行くのじゃなかろうかとこう思うのです。不浄が掛っちゃならん不浄がある時にゃ詫びにゃならん。どういうことが不浄になるかと。まぁそんな事を色々申しました。まぁ最後にですね最後には私が皆さんに言っておる事は、少しは不浄がかかる位なやはり信心。
言うなら御用が出けるおかげを頂かなきゃいけないということになります。ただ不浄が掛らんように、不浄が掛らん様にばっかり言いよったら、信心は萎縮してしまいます。そこんところをだから詫びていくのです、お断りをして行くんです。そして願いある事を頼んでいくという信心。今日はこの御神訓。不浄のある時は先に断りをおいて願いある事を頼めということをです、はぁお道の信心はもう詫びに徹する事以外にないなということと同時に、この事によってですね。
不浄のままでもやはり止むに止まれんという信心がですね。信心をいよいよお育て頂くためにはそこん所もあえて、おかげを頂いて行かなければならない。そして本気でそこんところをお断りをして行かなければならない。そこに私はいよいよ信心の成長があるとこう思うのです。なるほど慢心はいけない。けれども私は少し位、言うなら慢心の出るくらいな信心をさせて貰えって、こう私はまあ申します。
それとちょっと通じますですね。ほんなこて慢心の起こるぐらいな、ひとつおかげを頂けと。でなかったら信心の成長はありません。特に慢心によってある場合は怪我もする。けれどもそのことによってまた一段と飛躍する事が出ける。今日の不浄のある時はというその不浄もです、そのような風に頂きましたらね、いよいよ信心が生き生きと活発になって来ると思うんですよね。
どうぞ。